コラム
とっとこのメンバーは、誰も自主保育に自信なんてありません。試行錯誤で進んでいます。このコラムは代表のかずみ が書いていますが、とっとこ全体としての意見では無く、考え方も日々変化しているので、まあ参考程度に読んでください。
先日、あるNPOでイクメンをテーマにした冊子を出すということで、とっとこが取材されました。「へぇ〜、俺達イクメンだったんだ!」。よーしこれから は、「イクメンかずみ!」「イクメンたかし!」と呼びあおうじゃないかと決意したのでした。が、家に帰るとカミさんは言ったのです。「え〜、イクメンじゃ ないと思うよ」。どっちなのよ!?
取材の中で、子供のオムツを換えるのに抵抗ある?という話がありました。抵抗?抵抗?テイコウ?つー か、ウチは3人、タカシんとこは4人も子供がいるわけで、否応なしにオムツは換えているわけでして。とっとこ活動でも、オムツしてる子のウンチは換えな きゃならんわけでして。うーん、そうすると回答はどうなるのかな。ま、一応抵抗は無しということになるのかな。世のパパ達には抵抗のある人も多いというこ となので、一応イクメン試金石にはパスしたようです。
イクメンっていうのは、育児をする男ってことだよねえ。育児っていうのは、子ども のお世話をやくってことかな。家で子供の面倒みたり、家事を手伝ったり…。幼稚園選びに参加するってのもそうかな。お母さんのやってる子育てを一緒に手伝 うパパを、イクメンと呼ぶのかもしれません。アレ?とすると、子どもらを里山に連れて行って遊ばせている活動って、ママ的には育児なんですかねぇ?お母さ んから見ると、育児メニューの中に子どもと遊ぶというのが入っているのかもしれないなあ。
そんなことを色々考えていて、あっと気づいた んです。というか思い出したんです。とっとこ活動の原点ともなっている元の幼児園の、薗田碩哉先生(通称:おひげ)からオヤジ達へのメッセージを。えーっ と、どこにしまったかな…。おぅ、これだこれだ。第一子の園で習ったおやじの心得。久し振りに読みましたが、私のコアの部分はこのメッセージでできてるん だろうなあと、改めて思いました。
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家事も育児も分担し、家庭円満を心がけるのはむろん立派だ。だが、男女共同参画と言っても家庭に母親が二人いるのでは意味がない。母性原理に対して父性原 理を対置し、子供の社会化を担うことがオヤジの役目ではありませんか。早い話が余りにも子どもに甘いお父さんが多すぎるのでは、ということです。
子どもへの優しさでは、しょせん母親にかなわない。おやじのおやじたる所以は、母親が持ち得ない厳しさや視野の広さで存在価値を発揮することのはずである。昔はそれを「ガンコおやじ」と称したのだが、今のおやじたちは物わかりが良すぎるのではなかろうか。
※さんさん幼児園おやじの会オフィシャル誌「くらげ通信」2008年3月号『オヤジよ、オヤジたれ!』より引用させて頂きました。
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お母さんとお父さんの、育児メニューはきっと違います。育児を単に分担していると、お母さんの膨大な育児メニューに圧倒されてしまいます。しかしそこにな いメニュー、オヤジだからこそ提供できるメニューもあるはず。イクメンたるもの、ここを忘れてはいけないと思います。え?とっとこオヤジはホントにイクメ ンなのかって?それは冊子を見てのお楽しみ(ドキドキ)。とっとこ関係は全面ボツになってる可能性もあるな(笑)
先日、ウチの娘の小学校で面談がありまして、そこで 先生に言われてしまったんですねー。「しょっちゅう遅刻してます」と。あちゃ〜。朝は友達と3人で登校してるんですが、見てるとすっごく歩くのが遅いんで す。おしゃべりしながら、あっちへふらふら、こっちへふらふら。さらに帰りも遅いんですねー。子どもの足で20分くらいの道のりを、1時間以上かけて道草 しながら帰ってきます。それを見て思ったんです。これって、とっとこの歩き方そのものじゃん!ヤバイよ、ヤバイよ〜。皆様、とっとこに入れるとお子さんが 遅刻の常連になる可能性があります(笑)
ま、考えてみると、実は私も小学校1−2年は遅刻常連でして、あまりエラそうには言えません(ん?こりゃ単なる遺伝か?)。だってね、とにかくイロイロ な道草ターゲットが通学路上にあったんです。まず犬がいる家はチェックで、犬をからかったり挨拶するわけです。粗大ゴミの日(昔はそういう日があって皆で 一箇所に出してた)は、これはもう宝の山ですから大遅刻必至。学校へ行くには、山を下る感じだったんですが、排水溝にはいつも山からの水が流れてて、これ はもう葉っぱ流しを必ずしなくちゃいけませんので(なぜだ?)、葉っぱが山の下にたどり着くまで、エラい時間かかるわけです。友達も一緒なので2人とも ゴールしなくてはなりません。
山を下ったところには酒屋がありまして、ここで毎日コツコツと酒瓶の蓋を集めてましたから、他の子にとられる前にチェックせねばなりません。で、そこか らは用水路沿いの道になりまして、この用水路にかかってるコンクリートの細いアーチを橋にみたてて、度胸だめしで渡ります。このあたりは虫も多くて、まあ 無視はできませんからとります。梅雨の時期はカタツムリが多くて、よくとったのを憶えています。草花も色々遊んだ気がします。さて用水路ともなると水量も でてきますし、手が届かない所を流れるので、単なる葉っぱでは下れません。そこで笹舟のように船式のもの作り、航海の無事
を念じて放ちます。途中でつっかえた場合は、小石を投げますが、時には直撃して撃沈してしまうことも。そんなことをしているうちに商店が並ぶ通りに出ま す。ここには放課後、毎日のように通った模型屋や、文房具や駄菓子を売ってる店があります。新しい入荷の情報はないか、貼り紙などをチェックします(っ て、お小遣いが少ないから本当に買えるものはほとんど無いんだけどね)。
八百屋のおっちゃんは朝から色々店の準備をしてて愛想もよく、なんか店先に立ち寄っておしゃべりしてた気がします。だいたいこのあたりで、始業5分前の チャイムが鳴ります。やべぇ!と走り出す男子多数。何事もなければギリギリで教室に滑り込みます。が、途中電車が近くを通ってる所があって、ここを貨物列 車なんかがちょうど走ってきた日にゃあ、後ろ髪ひかれてペースが落ちて、まあアウトになります。昔は貨物列車の一番最後に車掌車というのがついていたので すが、鉄道好きの子達はそれを見たいのです。走って誰かが転んで怪我したり、ランドセルの中をぶちまけちゃたりしたら、知らない子でも放ってはおけません から遅刻連合みんなで遅刻。こんな時に、見捨てて走って登校していくようなヤツは遅刻連合から見放されます(ん?それって遅刻しなくなるってことで、むし ろ親にとっては、ありがたいじゃーん!)
時には、八百屋前を通った時に誰もいなくて静かな時があります。今日はどうしたんだろう?と思っていると、もう始業チャイム鳴ったぞと、おっちゃんに知 らされるわけです。こんな時はジタバタしても始まらないので覚悟をきめ(←私はここで覚悟というものを学びました…え?違う?)、道草を継続しながら登校 します。バツのわるい顔で教室へ入り、ランドセル置くと先生が黙って廊下の方を指差し、友達と一緒に廊下に立たされるわけです。ふと横をみると、隣のクラ スでも立たされている子がいたりして、チラっと目線をあわせて同士の絆を深めます。正座というパターンもあったのお。冬の廊下はすごく寒かったのを憶えて います。
母の話によると、入学してすぐは近所の上級生の女の子が、私たちを引率して学校まで連れてってくれたんだそうですが、あまりのスローペースさにすぐギブ アップだったとか。ん?ちょっと待て!ウチの娘も最初は、近所の上級生の女の子と一緒に通い始めてたぞ。でもそのうち、おいてかれるようになったぞ。そう いえば「歩くの遅いんだもん」って言ってたぞ。おぅぅ、オレと同じパターンじゃん!
で、勉強の方は大丈夫なのかと、学習ノートをのぞいてみると、
【問題】「田」という漢字を使った文を作りなさい
【娘の回答】みんなで田きびをしています。
娘よスマーン m(_ _)m そうそう、とっとこでは田んぼで焚き火したよな。田んぼと焚き火の風景はイメージが似ている。連想はあってるあってる。先生はバツをつけても、お 父さんが○をあげよう。皆様、とっとこに入れるとお子さんが、アリエナイ漢字の間違いをする可能性もあります(笑)
皆様とっとこご入会にあたってはくれぐれもご注意を…
最近、NPO法人「ゆ め・まち・ねっと」、NPO法人「子 どもへのまなざし」 の方々と話をする機会がありました。え?アルコール?入ってました m(_ _)m どちらも子ども達に真剣に向き合っていて、なんだか話を聞いているだけで元気がもらえる感じでした。ありがとうございました!一方、私はその話の 熱さに負けてしまい、冷却のためひたすら「おねえさん!生追加ネ!」。場所取りオヤジの一人として5時早々に入店し、えー、ゲストがいらっしゃる前に「お ねえさん!内緒オーダーで生ふたーっつネ」など訳の分からんセリフでスタート。そして気づけばもう真夜中。場所を移して、結局8時間近くビールを飲み続け て午前様、翌日のとっとこ保育は遅刻&二日酔の大将でございました(反省)。
えーっと、今日は何がテーマだっけ?そうだった、とっとこ の特徴だった(汗)。…ってさ、もう上の文章でバレてんじゃないかなあ。こんなオヤジがとっとこ代表でスイマセン。じゃ、これでさいなら〜(逃)。あー、 ちょっとマジメに書こう。ま、こんな風にですね、違う団体の人たちと飲む席ってのも必要だと思うんですよ。自分がやりたいコトは何なのか、とっとこの内側 から考えていても見えないモノが、他の活動を見聞きすると、不思議と外側から見えてくるように思います。よっしゃ、オレもっともらしいこと言った!? (笑)。
とっとこの特徴は、考え方が一つじゃないって事なんじゃないかと思います。設立当初からそうだったんですが、当初の3家族から して考え方が違ってたんですよね。夜遅くまで話してたよなあ。全会一致ならぬ、全会不一致でスタートしたのです。だから統一理念が無い。キーワードは里山 のみ。一番苦労したのはパンフレットです。だって全会不一致なんだもん。1行書くのに議論で1時間かかる。で、未だにちゃんとしたパンフが無いんです。代 表である私、かずみの意見に影響力があるのは確かでしょう。ただ、ここで忘れてはいけないのが、その正体が最初に書いたような、二日酔オヤジであるという ことなのです。その証拠に!とっとこのメンバーは、ほとんど私のコラム読んでないという話(爆)。お母さん達の評価は「かずみは不良で自分勝手であ る!」。絶えずリコールの恐怖におびえております、ハイ。パンフは再び作っているんですが、その内容は「来て、見て、聞いて!」。興味あったらとにかく見 学してみて、良さげかどうか感性で判断してもらおうというものです。こりゃ全然紹介になっとらんパンフだなあ(笑)
こうした理念不統一 の運営は、実際の保育形式にも現われていて、それが大将制だと思います。その日の保育は、行き先から何から大将役のオヤジが決定可能。あとの当番は深く考 えずに付き合います。つまり、少なくとも大将1人の行ってみたい所・やってみたい事を実現できればいいので、皆の総意を受けて行ってる保育では無いので す。大将となって自分を発信する日、当番となって大将に従う日、この繰り返しが様々な考え方を許容する、ゆる〜い風土を作り出しているのかもしれません。 お母さん達の世界も、他の自主保育グループとはちょっと違う母親集団になっているようです。
なぜ理念統一の動きが出てこないのか?それ は里山自主保育とっとこが、その名の通り、里山・自主・(オヤジ)保育だからではないかと思います。というのは、まず里山利用で、公園などの公共施設を利 用しているのではないため、お役所等に対して折衝活動などで、団体の理念を紹介したりする必要がありません。そして自主保育で、誰も雇っていないので予算 規模はゼロに近く、賛同を募って資金を集めるために広報する必要もありません。オヤジの集団は、横というより縦社会で全員の意見で動こうとはあまり考えな いし、理念にピュアに傾倒とかもないし、子育てとも一歩距離があるんですよね。必要事項は飲み会で、解決策A「ま、いーんじゃない?」、解決策B「なんと か、なるんじゃない?」、解決策C「おねえさん、生追加!」にて決定。
とっとこは、この先どこへ行くのかなあ…。
とっとこの活動場所って、使ってよいと『許可』をもらった土地じゃないんです。公園でもない。とっとこは根無し草です。だから大将は、いつも子ども達には エラそうにしてるけど、内心ちょっとビクビクしてるんですね。地域の方々に挨拶は忘れないよう、ゴミなどを残さぬよう心がけ、遊ばせてもらっている意識で います。でも、チビどもは遊び始めたら制御きかないし(ダメじゃん!)、いつどんな問題に突然遭遇するのか予測不能なのであります。
私 達にとっては、この里山が好きでずっと遊ばせてもらいたい、という気持ちだけが切り札です(それホントに切り札か?)。あ、それと一升瓶ね。とっとこで は、何かあった時のために一升瓶を常備しております。ただ、えーっと、ほら生ものですから定期的に入れかえが必要なので…その際は自主消費も…モゴモ ゴ…。ね、会計のお母様!
もしお山のどこかで怒られてしまった事があっても、次からもうそこに近寄らない…なんて事はありません。関係 する地域の方々と最初からニコニコな関係というのは、なんだか一部だけツマミ食いしてるようで、クローズドで不自然だと思っていますし、失敗など色々あり ながら、ゆっくりオープンに根を下ろしていきたいと思ってます。アレ?それじゃ根無し草じゃないじゃん!(笑)
自分達が安心して活動で きるフィールド、そういうのあったらいいなと前は思ってたのですが、実は最近あまり思ってないんです。安心と自由って、実は反対語なのかもなあ。オヤジ大 将の内心ビクビクは、格好悪いんじゃなくて、きっと自由の緊張感なんですよ(言い訳じゃいないよ〜)。自分の足で立って判断する自由というのは、自信の無 さや緊張感と共にあるんだろうと思います。そしてそれこそが、かつて自分達が子ども時代に体験した、遊び場の危なげで魅力的なニオイであり、とっとこで子 ども達に見せたい自由の後ろ姿なのではないでしょうか。
オヤジ達よ、たまに一杯やりつつ、未知の道へと(ビクビク)進むべし!
とっとこに"観察"参加されている大学の先生がいらっしゃるのですが、話によると、普通は自主保育というのは母親中心の活動らしく、とっとこのようなオヤ ジ保育活動は珍しいらしいそうです。昨今、父親の育児参加がよく取り上げられていますが、今日は私の考える父親の育児参加について書いてみたいと思いま す。
私がとっとこで子ども達を率いている理由って何でしょうか?(自問)オヤジ達の間ではよく「好きでやってんだから」という言葉が出 ます。お山が好き、子どもが好き、虫が好き、遊ぶのが好き、オヤジによって様々な理由があるでしょう。じゃあ、自分は?やっぱり、大将になれるからかなあ (笑)。家来(子ども達)を率いてガキ大将になれるんだもん。まあ、早い話がお山の大将ごっこですね。
ん?これじゃあ、オヤジがただ遊 んでるだけの身も蓋もないコラムになっちゃうゾ(汗)。がんばって父親保育の意義について考えてみましょう。言いたいのは、父親による保育は、母親の手伝 いでは無いという点です。あくまで父親的な目線を忘れてはいけないと思います。では父親の目線とは何か?それを考える上で、押さえておきたい近代の変化を 3つ挙げてみます。
(1) 宅地開発などで空き地が減ったこと
(2) 電気・ガス機器が充実するなどで家事が合理化されたこと
(3) 家制度が無くなって単独世帯が増えたこと
こうした変化によって何が起きたのか?開発が進んだことで子ども達の自由な遊び場が減りました。一方で母親が子どもに目を向けられる時間が増えました。そ して子どもの教育も様々な選択ができるようになり、母親が任されるようになりました。まあちょっと短絡的な書き方ではありますが、結果としてほったらかし にされている子どもは減ってしまい、母親は子の教育に熱心になったと思うのです。けれど子ども達による自由な時間や、野山の中での遊びは失われてしまいま した。一見無駄に思えていたそれらが、実は子ども時代に必要な3間(時間、空間、仲間)の種になっていたと思うのです。
では今、父親は 何をして何を考えるべきでしょうか?高度経済成長期によかれと思っていても、遊び場を壊してしまったのは、お母さん達ではなく父親達であることを忘れては いけません。ある意味、そのツケを母子が今払わされているんだと感じます。だからそれを戻すのも父親達の仕事です。私達は子どもの遊び場の価値を見失って いたように思います。近所の野山で子ども同士で勝手に遊んでいた頃、それは見た目”無料”でした。でもそれは”無価値”とは違ったのです。
今、とっとこで里山自主保育を行っている当番の価値はどのくらいでしょうか?時給800円×3人×6時間で、子 ども15人ほどを 見ているとして、これが毎日ならば月々約3万円/子ども1人になります。とっとこがかつての遊び場を再生できているとは思いませんから、それ以上の価値が あったはずです。毎月3万円の価値をせしめてしまったのは誰(何)なのか?この値段を現代の資本主義社会に組み込んで、認めさせる社会を作り出すことがオ ヤジ達の最終的な目標かもしれません。
ともあれまずは、現代の子ども達が失ったものがどの位のものなのか?それを知るためには現場に出 ねばなりません。近所の子ども達を率いて、レジャー施設ではなく、かつて自分が昔遊んだような野山に連れ出してみて下さい。きっと、遊び場が減っているこ と、管理や責任を問う社会の風当たり、忙しい子ども達、遊び道具に頼る子ども達、子ども達を遊ばせる3間を作り出すのに苦労を感じるはずです。幼稚園や保 育園とはいったい何なのか、公園とは何か、自然保護の目的、母親達がおかれている立場、そうした様々な事についても考え始めざるをえなくなるはずです。自 分の子ども時代と、少なくとも同じ程度の環境を子どもに残してあげたくなると思います。
育児における父親の目線とは何でしょうか?お母 さん達による自主保育は、子どもにより良い環境で育って欲しい、またお母さん達自身の助け合いや学びという面が濃いと思います。そこにはお母さん達による 暖かい眼差しが感じられます。目線は対自分の子ども〜会の子ども達といった所でしょうか。一方、オヤジによる保育は、オヤジ自身が「好きでやってんだか ら」が基本であり、オヤジ大将・幹部をトップとし、少年時代のように、自由に自分のやりたい事を実現して遊ぶ姿を、下の子達に(とっとこの子ども達に)見 せられればよいと思います。時には農家のおじさんに怒られちまってるオヤジの姿(汗)というのも、自由にのびのび活動できている証拠です。とっとこのある オヤジが子ども達を『チビども』と呼んでいますが、まさにぴったりくる言い方で好きです。実際に子ども達を引き 連れて、思い切ってやってみたい事をできるかできないか、そこで子どもがおかれている現代の環境を知ることになります。その上でオヤジ達は協力して、子ど ものための環境作りを世に問うていかねばなりません。目線は、対チビども〜対社会といったイメージになるでしょうか。
オヤジ保育は、子どもが主人公では成り立たないと思います。そもそも最近は子どもを”保育”してるのかどうか、母親達による保育とは意味がちょっと違う ような気もしてます。要は、オヤジ保育はオヤジが主人公じゃないとね!
※うーん今ひとつ、まとまりの無い文章だなあ。まだ本質をとらえられていないのかも。これからもどんどん現場にでて考えを深めていきたいと思います。
先日、仲田の森で活動をした際、なぜか私のザックに注目が集まりました。デカ鍋まで括り付けてきたので興味深々だったみたい。釣り竿までくっついてたもん なぁ。そういえば、このザックを新調した時にコダワリがあったんですよ。今日は、大将のザックを紹介してみたいと思います。
★容量は20リットルか30リットルか、それが問題だ。
あー、このザックいいねぇ。アウトドア用品店には色々なザックがあって目移りしてしまいます。保育当番が持ってく荷物って意外と多くなるんですよね。 おっ、これなんかタップリ入ってしかも軽いね。腰でしっかりホールドしてデザインもいいし、ほほぅ予算内だね。そんな目移りしてる私にもう一人の私が(誰 だよそれ)ちょっと待ったぁ!
確かにザックが大きくなれば、荷物も楽に入るし、大きいといっても登山じゃないんだから、背負う負担もさ ほどありません。しかーし!大原則に戻りましょう(何の?)。何かが便利になれば、何か失うものがあるハズ。それは何なのでしょうか。ここは里山保育を行 う上でじっくり考えるべきポイントなのあります。私が思ったのは、ザックを大きくすれば、お山に持ち込みうるモノも増えてしまういうこと。便利な道具は楽 しいこともできますが、色々なことができるようになり、時間の進み方を早くして、人を忙しくしてしまう敵にもなります。遊び道具は面白いですが、子ども達 から工夫を奪う道具にもなりえます。
お山の中にはなるべくモノを持ち込まずに保育したいという理想、しかし色々楽しそうなアイテムを試 して遊びたーいという煩悩、そんな気持ちの葛藤から小さい20リットルをチョイスしました(理想だけを追わない所がオヤジ的だなぁ)。よしっ、これに入ら ないものは持っていかないゾ、と店頭にて森の神様達に誓ったのでした(変な客…)。ただ絶対欲しい機能もありました。ザックの横に焚き火セットやシャベル を固定できること。畳んだブルーシートを固定できることです(あれ?すでにザックからはみ出してますけど!?笑)えー、はみ出し・くくりつけはOKとしま す(きっぱり)。そして究極のはみ出しが、仲田の森で見つかった(!?)鍋くくりつけ。いーじゃん、いーじゃん、セーフだもーん。
とっとこの行く先に崖あり…。いやいや、前途多難だなぁとかそういう意味じ ゃないですよ〜。お山でよく行くのが通称『しろやま』と 『くろやま』の2カ所。実はどちらも崖があるんです。大人でもビビッて しまう急な崖なのですが、子ども達は崖滑りで遊びます。けれどみんな最初から崖滑りが出来る訳ではありません。小さい子は滑って登れずに 助けを求めてきます。そんな時に当番のオヤジは・・・「そ のうちできるようになるよ」と 手助け致しません。オイ!働け!という声に言い訳しますと(笑)、ここには、とっとこ的な特徴が表れていると思います。
第一に、子どもに自由を与えたいから。ズバリ、自然の中は危険だらけ です。気を抜けば、命を落とすような場所は至るところにあります。よく言われるのが、危険には2種類あるということ。リスク(目に見える危険)とハザ ード(予測できない危険)です。リスクをいじらずハザードを取り除くことが、オヤジの使命なのではないかと思います。 子ども達に自然 の 中で、自分の足で立って行動して欲しい、リスクにチャレンジする機会を用意したい、これが私が子どもに与えた い『自由』の考え方です。もし崖登りを手伝ったら、その子にとって崖の上はハザードだらけの場所です。事故を防ぐためには、崖の上でも目をかけることにな ります。たとえ登れて嬉しかったとしても、そこに自由はなく、つまりオヤジは自由を奪ったことになるのです。
第二に、子ども時間の進み方を大切にしたいから。崖に登れるようになって喜び 、滑れるようになって喜ぶ。それは数年かかっていいと思うのです。2歳で崖に初めて 挑戦し、5歳でできるようになる。毎回少しずつ進歩していけばよく、出来るようになるのを急ぐ必要はあ りません。何かと現代社会は早くできることを良しとする風潮がありますが、子ども時代は子ども時間のスピードを維持する、これもオヤジの使命だと思いま す。初めて挑戦した子は、だいたい泣きます。それは全力で頑張った証だと思う んです。出来なくても手助け無用。力いっぱい頑張ったけどダメだったという、子ども悔しい気持ちを受け止めて あげるには、「そのうちできるようになるよ」という言葉かけ が良いのではないかと思うのです。
第三に、異年齢の関係を築いていきたいから。子ども社会は縦社会、上の子は偉く、下の子はみそっかす。下の子から見て、大きな子達がスイスイと崖登りを しているのは、憧れであって欲しいと思います。崖の上 はステータスなのです。だから簡単に登ってきてこられちゃあ困るわけです。登り方、滑り方、遊びの技術は見よう見まねで、徐々に伝えられていきます。一 方、上の子達から見れ ば、チビ達は自分と同じことは出来ない、みそっかすな存在であると認識していて欲しいと思います。鬼ごっこでも何でも、みそっかすは特別ルールが適用され ます。みんな同じではないのです。そこが小さい子をいたわる気持ちの原点になるんじゃないかと思っているのですが・・・。
で、そんな長いウンチクを垂れつつオヤジは何してるかというと、早い話がお山で昼寝してるんですねー。起きたら焚き火遊びですねー。うーん、もはや ホントに↑の文は言い訳にしか聞こえないんですねー(笑)
近頃のとっとこは参加家族が増えてきて嬉しいのだが、子どもの数が増えて未就園児も入ってくると、保育当番の目がいき届かない時も増えてくる。では、大 人の目が増えればよいかというと、不思議なことに大人が増えると、逆に子ども達はまとまりがなくなってしまい、さらに目がいき届かなくなるのである。
子ども達の自主的なまとまりを強め(≒保育当番のオヤジ達が楽をし!?)、かつ大人の参加(付添、見学)を自由にオープンに実現するにはどうしたらよい のか?その方法のひとつとして『3歩ルール』がでてきた。これは大人の参加者は、後ろの保育当番の3歩後ろを歩くというものである。実は目新しいものでは なくて、とっとこ初期段階から参加の大人は後ろを歩こうという考えがあった。しかし曖昧な暗黙事項だったため、今回『3歩ルール』と名付けて、皆で大人参 加のあり方を考えていこうと考えている。
例えば未就園児などの場合、一人で歩くのならば子ども列の中へ、保護者と一緒ならば3歩後ろで歩くことになる。最初は子ども列にいたが寂しくなってお母 さんと歩くのも自由である。その場合は3歩の壁を越えてはっきり3歩後ろに入って歩く。この3歩は目には見えない壁として尊重し、今自分が壁のどちら側に いるのかを意識したい。3歩ルールはとっとこの決まりというわけでは無い。そのうち無くなるかもしれない。けれど今の段階は、このルールを通じて様々な面 で とっとこが成長できるのではないかと思っている。
とっとこは小雨くらいであれば実施してしまいますし、子ども達も雨も楽しんでいます。私としては、たとえ台風でもやってみたい位の気持ちでいました。し かし…。
先日ちょうど私が大将だった時のこと。予報は雨のち晴でしたが、こりゃあ焚き火にいい天気だなんてむしろ楽しみにしていました。ところが当日、本当に嵐 がやってきたのです。天気図を見るとまさに寒冷前線の真下であります!嵐の後のお山は下見の時とは一変し、崖崩れ・倒木・川(!)が出現します。せめて風 が無ければブルーシートを張って、お山の中で雨をしのげる場所を確保できるのですが、外はびゅうびゅう吹き荒れています。朝30分くらい悩み続けました が、中止を決定しました。
おかげで荒天時の保育について考えるよい機会になりました。中止ではなくて何かできないかなあ。せっかく楽しみにしてたんだし(特に大将のオヤジ!)。 求める場所の条件を書くと結構厳しいものになります。
1) 当日の朝、急にグループで行っても大丈夫で、
2) 走ったり飛び跳ねたりしても大丈夫で、。
3) お弁当を食べられて、
4) そこを基地にして雨遊びに出かけられて、
5) 車で送迎できる施設。
古い空き農家とか借りられないかなあ。
実は今回、午後から近くの児童館でミーティングを設定していました。これは荒天時の候補として見学を兼ねていました(まさかその当日が荒天になると は…)。児童館の中は結構大勢の子ども達で賑わっていましたが、とっとこの子ども達も思い思いに遊び、トランポリンで跳ねて、オヤツもたべて、遊びの小道 具もいっぱいあって、それなりに楽しかったようです。児童館でいいのかなあ。でも雨遊びの基地みたいには使えないし、これだと”里山”全然関係ないんです けどっ! もう少し色々な場所を見学して研究していきたいと思います。
お山を歩くときには、 保育当番のリーダーが先頭で、子ども達はその先には行かないというお約束があります。。がっ!子ども達はとっとこ、とっとこと前へ行ってしまうのです ねー。って、そんなユルいことでいいのかっ、ケジメはっ!というお叱りもきそうですね。
とっとこで好まれないのが『管理』という言葉。絶対前に出るな!というのは管理の色が濃いのですね。でも前に出られると安全面で不安もあるわけです。そ んな大人の葛藤に子ども達は真正面から迫ってきます。つまり、わざと前へ行っちまうわけですな。
各リーダーによって考え方は色々だと思いますが、私はこう考えています。お約束としては前に行かない。でも見える位置なら大目にみちゃる!このグレーさ が、とっとこっぽい気がしています。
そもそも保育当番やリーダーという言い方もあまり気に入らないのですね。保育当番のリーダーというのは、言ってみればガキ大将だと思うのです(次からそ う自称しよう!)ガキ大将たるもの、自分が楽しむだけでなく、配下の子ども達も楽しく安全に遊べるよう支配せねばならんのです。だから、チビっ子をお山へ 遊びに連れてきているのです。大変なのです。リーダー以外の保育当番は大将の家来、取り巻きってとこでしょうか。とっとこでは、保育スケジュールを立てる 時、黙っていると、保育当番役は、あっという間にオヤジ数名に取られてしまいます。当番は順に回して分担しているのではないのです。お山の大将になりたい オヤジが座を狙っているのです。ケンカにならないように順番こで大将になっているわけです。大将となったオヤジは、子ども達を連れていく場所も時間も、自 由に決められる特権を謳歌します。
とっとこは、子どもに とっての自由空間でありたいと思う。
私が子どもの頃、家で母親に叱られた時は外に逃げた。友達と遊んだりして、ほとぼりの冷める夕方まで帰らなかった記憶がある。家での窮屈さと外での自 由、これが良いバランスだったんだと思う。でも今の自分の子どもを見ると、外に居場所が無いようなのだ。叱られても家の中にいて、親には反抗したり、逆に 甘えたりして居場所を確保する。家の中や母子関係は、基本的に管理社会の構造だと思う。これでは子どもは自由を体験する機会が無くなってしまう。だから子 どもの自由空間を外に作りたいと思う。
管理社会になれてしまうと、何かあるとそれを社会のせいにしたり、人のせいにしたりする。それで世渡りは上手になるかもしれないが、自分の子どもには もっと自立した考えをもって欲しいと思う。自由というのは自分の足で立って、自分の目でものを見て、自分で判断して挑戦することだ。松田道雄先生の言葉を 借りれば「自分が自分自身の主人であること」である。
幼児保育はとかく管理に流れがちである。自由に遊ばせたいと思っていても、保育する大人側は、楽しく過ごして欲しい、いろいろ面白いことを体験させたい と思って、ふと振り返ると子どもの遊びを誘導してしまっている。危ないことやイケナイことをする子どもに対してつい口を出してしまう。その日のスケジュー ルを立てること自体、もう管理指向に入っていることを意識しなくてはならない。
とっとこのような”イベント”型の保育では、自然発生的な近所遊びの世界とは違って、集合時間があり解散時間があり、大人が保育するという基本的な管理 の枠がすでに出来ている。だからこそ、保育する時は、常に自由を意識しなくてはいけないと思っている。里山活動が主なのではなく、自由が主なのである。里 山は子ども達の自由空間の舞台にすぎない
子ども達よ、家から逃げ出しておいで。そしてお母さん、子どもを逃がしてあげて下さい。夕方には帰ります。
今日は雨。近所の散歩 に出かけようと子どもを誘うと、玄関でサンダルを履こうとしていた。お母さんは、「それじゃダメダメ」と言いかたが、「好きなようにさせればいいよ」と私 が言うとサンダル履いて準備完了。
当然ながら外に出ると雨で足が濡れる。まあ何事も経験だしなあ、そのうち濡れていやだから家に帰ると言い出すのかなあ、などと考えながら歩いて行く。し ばらくして、水溜りを見つけると、「サンダルだから、このまま入れるね!」と楽しそうに水に入った。
やられた!と思った。子どもは雨の日も外で遊んで欲しいと思っていた。だからしっかりした長靴を子どもに奨めていた。でも、雨だから長靴というのは大人 の固定観念だったのだ。子どもにとっては、雨→水たまり→水遊びにはサンダル、という発想だったのだ。雨だからサンダルという選択にグッときた一日だっ た。
私の考える保育イメージを絵にしてみました。自主保育の基本は、子ども達が遊ぶ環境を、親が与えることだと思います。遊ぶ環境といっても、遊具を用意し たり、イベントを企画したり、面白いところへ連れていくことではありません。昔の近所遊びに見られるように、子どもは何もなくても、勝手に子ども同士で何 かを見つけて遊ぶものです。親が用意するのは、子ども達が自由に遊ぶための時間、空間、仲間(通称さんま、三つの間)だと思うのです。親はこの3軸の質に ついては、色々試行錯誤考えていくべきですが、その内部は干渉しないよう、子ども社会を尊重することが大切だと思います。親の仕事はこの遊びの舞台を支え ることだと考えます。
とっとこは、遊びの舞台の背景に里山の風景を選んでいます。子どもの時間が流れ、自由で開放的な空間があり、子ども社会を作る仲間が毎日集う。そんな園 を目指したいと思っています。最近の幼稚園は、様々な年間行事、語学やスポーツなど、盛りだくさんで楽しい園がいっぱいあります。きっとそこでは、子ども が笑顔で毎日楽しく遊んで、いろいろなお友達と様々な体験を通じて成長していって欲しいと願う親の気持ちも満たしてくれます。でも、幼児時代はもっと素朴 な時間を過ごしていいんじゃないか?過ごすべきなんじゃないか?と思うのです。現代の時間の進み方は昔にくらべてどんどん加速していると思います。あれも やりたい!これもやらせたい!損しない選択をしたい!そう思う親の気持ちをぐっと抑え、幼児時代くらい子どもにゆる〜い時間を過ごさせてあげませんか。何 かを与えれば、知らない間に何かを失っていると思うのです。デラックス特急ではなく、親子で鈍行に乗ってみませんか?乗り降りも自由です。
森のムッレ教室リーダー養成講座を受講してみました
2008年8月23日(土)〜24日(日)の2日 間で 行われた、森 のムッレ教室リーダー養成講座へ参加してきました。受講生は8名で、ほとんど保育園からで、私のようなパパ参加はもうお一人だけでし た。室内講義、ワークショップと屋外フィールド演習で、あっという間の2日間。この講座を受けるだけですぐに自分なりの教室をプランできるようになるもの ではありませんが、ムッレ教室の考え方を知ることができ、また関係者の方々の話を聞くことができて、有意義な日程でした。青空自主保育に挑戦している私か ら見たムッレ教室の感想は、ちょっと一般的なものでは無いかもしれません。でも感じたことを残しておこうと思います。
子ども達をより自然の中に引き込んで遊ばせたい、という意味では子どもの園もムッレ教室も同じだと思います。けれどその理由が違います。子どもの園で は、普段自然の中で過ごすのが子ども達にとって、遊ぶ環境や育つ環境として、きっと自然で良いのだろうと思います。一方ムッレ教室は、スウェーデンの環境 教育の一環として位置づけられていることから、子ども達に対して直接的な指導はありませんが、自然の中の動植物の循環など、エコシステムを学ぶというメッ セージが強く存在し、その日の活動に目的があります。けれどムッレ教室そのものは、年間毎日の活動ではなく、春秋にそれぞれ6日間程度(1回2時間程度) 計画されて行われる短期間の活動ですので、一概に比較できるものではありません。いわゆるネイチャーゲームに、エコロジーのメッセージがのっているという 見方もできると思いますが、ムッレという妖精が作り出すファンタジーの世界がありますので、これはもう独自の世界を持っていると言えるでしょう。世界規模 で協会が出来ていることもあり、バックグラウンドは厚いといえます。
私がなぜムッレに興味を持ったのかですが、それはとっとこに環境教育を導入したいと思ったからではありません。理由はいくつかあります。一つは、新しく 来る子ども達を一緒に自然の中で遊べるようにするために、何かプログラムがあった方が良いのでは無いかと思ったからです。例えば今のスタッフが今の幼児園 の活動をベースとして、お山の保育を取り入れるならば、そうしたプログラムは不要かもしれません。しかし自主保育は、親が次々と入れ替わります。その中で ベースとなるプログラムがあれば、それを基本として共有していくことができます。もう一つは、ファンタジーの世界を取り入れることに興味があったからで す。森のようちえんスタイルの保育であっても、野外活動ばかりしているわけではありません。絵本の読み聞かせの時間もあります。幼児期の子ども達にとって ファンタジーの世界も大切にしてあげたいと思います。ムッレは現実世界との狭間にいて、すでに長い歴史をもった"信じられる"ファンタジー世界を持ってい ると感じました。異国のキャラクターではありますが、日本では海外の絵本が普通に読まれていて、そのあたりはすぐに慣れて違和感は無いと思います。
ムッレ教育の代名詞でもある環境教育ですが、これについては2つの意味で導入について慎重になっています。一つは、エコロジーに対する考えが日本的で無 いかもしれないと危惧している点です。例えば森での3つのお約束というのがあって皆に言います。「大声を出さない」、「草や花は根っこから取らない」、 「ゴミは持ち帰る」なのですが、最後のゴミについては賛同します。でも子どもはお山で大声で遊んだりするんですよね。崖滑りでの泣き笑いは普通の風景だと 思います。草や花についても、もちろん種類とか場所によるでしょうが、一般論としてあらかじめ言っておくレベルの禁止事項では無いと思うのです。またムッ レ教室の中で子どもらが拾ってきた草木などは、終わった後で元の場所に戻します。言いたいことは分かります。でもそこまでのローインパクトは日本で実施す る必要は無いと思うのです。
ただムッレが自然へのローインパクトを言うのも分からなくはないんです。以前私は、発祥の地スウェーデンではありませんが、同じ白夜のあるカナダ北部を カヌーや犬ぞりで旅をした経験があります。極地に近い地方では、自然のパワーは日本ような気候地帯と比べて貧弱です。動植物のエコシステムは人間が持ち込 むものによって、大きなダメージを受けてしまうのです。少々品が落ちますが、野グソを例にとってみましょう。日本ではそこそこの深さに土を掘って致しま す。しかしカナダでは浅く埋めるのです。土壌中の分解者(ミミズやら虫やら微生物やら)の働きは浅い場所でしか期待できないからです。植物についても、極 地では非常に長い時間をかけて育ちます。それに比べて日本では、場所にもよりますが怖いくらいのパワーがあります。動植物の多様性やパワーは、おそらく日 本の方が遥かに豊かだと思います。そんな日本では、森の中で大声を出したって、きっとカラスがさらに大きな声で返してくるし、花を抜いて他の場所へ置い たって、再生は早くまたあっという間に分解も進んでいくと思います。自然が強いのです。
慎重になっているもう一つの理由は、ムッレ教室が伝えるエコシステムについてのメッセージが、幼児期の早期教育に繋がらないかとう点です。これは前述の 日本とスウェーデンの環境の違いもあるかもしれません。バッタを捕って、家に持って帰り、観察して、最後は元の場所に戻す。それがムッレ流だと思います。 でも、いっぱい捕って家に持って帰って、ついに世話できずに死なしてしまう、幼児期にはこういう経験をいっぱいして良いのではないか?(日本では)。元の 場所に戻すという考えは、小学校でいいのではないか?と思うのです。エコシステムについてのムッレが持っているメッセージの内容は賛同します。でも時期に ついては要研究です。
環境教育のメッセージ性を薄くすれば、方向としては共感できるので、自主保育への導入はできると思います。森での3つのお約束、子どもの園バージョン は、「小さい子を気にする」「知らない草木の実を食べない」「ゴミを捨てない」かな。 (石 附おやじ)
様々な本を読んでみて(書籍紹介を ご覧下さい)、あくまで個人的な考えとしてですが、私は今こんな風に考えています。もし、昔ながらの子どもの近所遊びが充実しているならば、この自主保育 活動は不要なのでは無いかと…。しかし子どもの遊びを成立させる3間(時間、空間、仲間)が、危機的な状況に落ち込んでいる現代、その3間という外枠を大 人が確保し、子どもをその中で自由に過ごさせる必要があるのではないでしょうか。ではどんな3間を子どもに与えるのか?子どもが子どもらしい時を過ごせる 3間とはどんな箱なのか?
それは簡単に答えが出るものではありませんが、私の中でのイメージは「すきとおったほんとうのたべもの」です。これは宮沢賢治の『注文の多い料理店』の序文にある好きな言葉です。それはきっと身近なとこ ろにもあるのです。でも気が付かず出会わない。自主保育とはそれを探す旅なのかもしれません。美しく豊かで、けれど暑くて寒くて危ない自然空間、里山がや はり舞台になると思います。親達の遠く温かい目線に見守られながら、そこで出会う友達・人々・虫・草木が、子どもや親達の「すきとおったほんとうのたべも の」になってくれればと願っています。
千葉県森の保育研究会の定例会に参加してみました
デンマークで誕生した森の幼稚園、今や国内でも様々な形で実施され、森の ようちえん全国交流フォーラムも開催されています。先日、千葉県森の保育研 究会の定例会に参加して話を聞いたのですが、森の保育を実施する際にまず立ちはだかるのが場所の問題のようです。いったいどこのお山 で保育を行えるのか?千葉県は予算を使って場所の調査から始めるとのこと。その点、子どもの園の活動場所である小野路のお山は、今まで地元の幼児園が活動 していたこともあって地理にも明るく、どこにどんな木の実があるか、遊び方も子ども達がすでに多くを知っています。子ども達に受け継がれてきたお山遊びの 文化を、大切に引き継いでいけるとよいのですが。