コラム

 とっとこのメンバーは、誰も自主保育に自信なんてありません。試行錯誤、みんなで話し合って進めています。様々な外部のセミナーなどに参加すると視野が広がります。


 自由空間へ逃げる

 とっとこは、子どもにとっての自由空間でありたいと思う。

 私が子どもの頃、家で母親に叱られた時は外に逃げた。友達と遊んだりして、ほとぼりの冷める夕方まで帰らなかった記憶がある。家での窮屈さと外での自由、これが良いバランスだったんだと思う。でも今の自分の子どもを見ると、外に居場所が無いようなのだ。叱られても家の中にいて、親には反抗したり、逆に甘えたりして居場所を確保する。家の中や母子関係は、基本的に管理社会の構造だと思う。これでは子どもは自由を体験する機会が無くなってしまう。だから子どもの自由空間を外に作りたいと思う。

 管理社会になれてしまうと、何かあるとそれを社会のせいにしたり、人のせいにしたりする。それで世渡りは上手になるかもしれないが、自分の子どもにはもっと自立した考えをもって欲しいと思う。自由というのは自分の足で立って、自分の目でものを見て、自分で判断して挑戦することだ。松田道雄先生の言葉を借りれば「自分が自分自身の主人であること」である。

 幼児保育はとかく管理に流れがちである。自由に遊ばせたいと思っていても、保育する大人側は、楽しく過ごして欲しい、いろいろ面白いことを体験させたいと思って、ふと振り返ると子どもの遊びを誘導してしまっている。危ないことやイケナイことをする子どもに対してつい口を出してしまう。その日のスケジュールを立てること自体、もう管理指向に入っていることを意識しなくてはならない。

 とっとこのような”イベント”型の保育では、自然発生的な近所遊びの世界とは違って、集合時間があり解散時間があり、大人が保育するという基本的な管理の枠がすでに出来ている。だからこそ、保育する時は、常に自由を意識しなくてはいけないと思っている。里山活動が主なのではなく、自由が主なのである。里山は子ども達の自由空間の舞台にすぎない

 子ども達よ、家から逃げ出しておいで。そしてお母さん、子どもを逃がしてあげて下さい。夕方には帰ります。

 雨だからサンダル

 今日は雨。近所の散歩に出かけようと子どもを誘うと、玄関でサンダルを履こうとしていた。お母さんは、「それじゃダメダメ」と言いかたが、「好きなようにさせればいいよ」と私が言うとサンダル履いて準備完了。
 当然ながら外に出ると雨で足が濡れる。まあ何事も経験だしなあ、そのうち濡れていやだから家に帰ると言い出すのかなあ、などと考えながら歩いて行く。しばらくして、水溜りを見つけると、「サンダルだから、このまま入れるね!」と楽しそうに水に入った。
 やられた!と思った。子どもは雨の日も外で遊んで欲しいと思っていた。だからしっかりした長靴を子どもに奨めていた。でも、雨だから長靴というのは大人の固定観念だったのだ。子どもにとっては、雨→水たまり→水遊びにはサンダル、という発想だったのだ。雨だからサンダルという選択にグッときた一日だった。

自主保育って何だろう?

 私の考える保育イメージを絵にしてみました。自主保育の基本は、子ども達が遊ぶ環境を、親が与えることだと思います。遊ぶ環境といっても、遊具を用意したり、イベントを企画したり、面白いところへ連れていくことではありません。昔の近所遊びに見られるように、子どもは何もなくても、勝手に子ども同士で何かを見つけて遊ぶものです。親が用意するのは、子ども達が自由に遊ぶための時間、空間、仲間(通称さんま、三つの間)だと思うのです。親はこの3軸の質については、色々試行錯誤考えていくべきですが、その内部は干渉しないよう、子ども社会を尊重することが大切だと思います。親の仕事はこの遊びの舞台を支えることだと考えます。
 
 とっとこは、遊びの舞台の背景に里山の風景を選んでいます。子どもの時間が流れ、自由で開放的な空間があり、子ども社会を作る仲間が毎日集う。そんな園を目指したいと思っています。最近の幼稚園は、様々な年間行事、語学やスポーツなど、盛りだくさんで楽しい園がいっぱいあります。きっとそこでは、子どもが笑顔で毎日楽しく遊んで、いろいろなお友達と様々な体験を通じて成長していって欲しいと願う親の気持ちも満たしてくれます。でも、幼児時代はもっと素朴な時間を過ごしていいんじゃないか?過ごすべきなんじゃないか?と思うのです。現代の時間の進み方は昔にくらべてどんどん加速していると思います。あれもやりたい!これもやらせたい!損しない選択をしたい!そう思う親の気持ちをぐっと抑え、幼児時代くらい子どもにゆる〜い時間を過ごさせてあげませんか。何かを与えれば、知らない間に何かを失っていると思うのです。デラックス特急ではなく、親子で鈍行に乗ってみませんか?乗り降りも自由です。 (石附おやじ)

 森のムッレ教室リーダー養成講座を受講してみました

2008年8月23日(土)〜24日(日)の2日間で行われた、森のムッレ教室リーダー養成講座へ参加してきました。受講生は8名で、ほとんど保育園からで、私のようなパパ参加はもうお一人だけでした。室内講義、ワークショップと屋外フィールド演習で、あっという間の2日間。この講座を受けるだけですぐに自分なりの教室をプランできるようになるものではありませんが、ムッレ教室の考え方を知ることができ、また関係者の方々の話を聞くことができて、有意義な日程でした。青空自主保育に挑戦している私から見たムッレ教室の感想は、ちょっと一般的なものでは無いかもしれません。でも感じたことを残しておこうと思います。

 子ども達をより自然の中に引き込んで遊ばせたい、という意味では子どもの園もムッレ教室も同じだと思います。けれどその理由が違います。子どもの園では、普段自然の中で過ごすのが子ども達にとって、遊ぶ環境や育つ環境として、きっと自然で良いのだろうと思います。一方ムッレ教室は、スウェーデンの環境教育の一環として位置づけられていることから、子ども達に対して直接的な指導はありませんが、自然の中の動植物の循環など、エコシステムを学ぶというメッセージが強く存在し、その日の活動に目的があります。けれどムッレ教室そのものは、年間毎日の活動ではなく、春秋にそれぞれ6日間程度(1回2時間程度)計画されて行われる短期間の活動ですので、一概に比較できるものではありません。いわゆるネイチャーゲームに、エコロジーのメッセージがのっているという見方もできると思いますが、ムッレという妖精が作り出すファンタジーの世界がありますので、これはもう独自の世界を持っていると言えるでしょう。世界規模で協会が出来ていることもあり、バックグラウンドは厚いといえます。

 私がなぜムッレに興味を持ったのかですが、それはとっとこに環境教育を導入したいと思ったからではありません。理由はいくつかあります。一つは、新しく来る子ども達を一緒に自然の中で遊べるようにするために、何かプログラムがあった方が良いのでは無いかと思ったからです。例えば今のスタッフが今の幼児園の活動をベースとして、お山の保育を取り入れるならば、そうしたプログラムは不要かもしれません。しかし自主保育は、親が次々と入れ替わります。その中でベースとなるプログラムがあれば、それを基本として共有していくことができます。もう一つは、ファンタジーの世界を取り入れることに興味があったからです。森のようちえんスタイルの保育であっても、野外活動ばかりしているわけではありません。絵本の読み聞かせの時間もあります。幼児期の子ども達にとってファンタジーの世界も大切にしてあげたいと思います。ムッレは現実世界との狭間にいて、すでに長い歴史をもった"信じられる"ファンタジー世界を持っていると感じました。異国のキャラクターではありますが、日本では海外の絵本が普通に読まれていて、そのあたりはすぐに慣れて違和感は無いと思います。

 ムッレ教育の代名詞でもある環境教育ですが、これについては2つの意味で導入について慎重になっています。一つは、エコロジーに対する考えが日本的で無いかもしれないと危惧している点です。例えば森での3つのお約束というのがあって皆に言います。「大声を出さない」、「草や花は根っこから取らない」、「ゴミは持ち帰る」なのですが、最後のゴミについては賛同します。でも子どもはお山で大声で遊んだりするんですよね。崖滑りでの泣き笑いは普通の風景だと思います。草や花についても、もちろん種類とか場所によるでしょうが、一般論としてあらかじめ言っておくレベルの禁止事項では無いと思うのです。またムッレ教室の中で子どもらが拾ってきた草木などは、終わった後で元の場所に戻します。言いたいことは分かります。でもそこまでのローインパクトは日本で実施する必要は無いと思うのです。
 
 ただムッレが自然へのローインパクトを言うのも分からなくはないんです。以前私は、発祥の地スウェーデンではありませんが、同じ白夜のあるカナダ北部をカヌーや犬ぞりで旅をした経験があります。極地に近い地方では、自然のパワーは日本ような気候地帯と比べて貧弱です。動植物のエコシステムは人間が持ち込むものによって、大きなダメージを受けてしまうのです。少々品が落ちますが、野グソを例にとってみましょう。日本ではそこそこの深さに土を掘って致します。しかしカナダでは浅く埋めるのです。土壌中の分解者(ミミズやら虫やら微生物やら)の働きは浅い場所でしか期待できないからです。植物についても、極地では非常に長い時間をかけて育ちます。それに比べて日本では、場所にもよりますが怖いくらいのパワーがあります。動植物の多様性やパワーは、おそらく日本の方が遥かに豊かだと思います。そんな日本では、森の中で大声を出したって、きっとカラスがさらに大きな声で返してくるし、花を抜いて他の場所へ置いたって、再生は早くまたあっという間に分解も進んでいくと思います。自然が強いのです。

 慎重になっているもう一つの理由は、ムッレ教室が伝えるエコシステムについてのメッセージが、幼児期の早期教育に繋がらないかとう点です。これは前述の日本とスウェーデンの環境の違いもあるかもしれません。バッタを捕って、家に持って帰り、観察して、最後は元の場所に戻す。それがムッレ流だと思います。でも、いっぱい捕って家に持って帰って、ついに世話できずに死なしてしまう、幼児期にはこういう経験をいっぱいして良いのではないか?(日本では)。元の場所に戻すという考えは、小学校でいいのではないか?と思うのです。エコシステムについてのムッレが持っているメッセージの内容は賛同します。でも時期については要研究です。

 環境教育のメッセージ性を薄くすれば、方向としては共感できるので、自主保育への導入はできると思います。森での3つのお約束、子どもの園バージョンは、「小さい子を気にする」「知らない草木の実を食べない」「ゴミを捨てない」かな。
 (石附おやじ)

 子育てのいろいろな本を読んでみて

 様々な本を読んでみて(書籍紹介をご覧下さい)、あくまで個人的な考えとしてですが、私は今こんな風に考えています。もし、昔ながらの子どもの近所遊びが充実しているならば、この自主保育活動は不要なのでは無いかと…。しかし子どもの遊びを成立させる3間(時間、空間、仲間)が、危機的な状況に落ち込んでいる現代、その3間という外枠を大人が確保し、子どもをその中で自由に過ごさせる必要があるのではないでしょうか。ではどんな3間を子どもに与えるのか?子どもが子どもらしい時を過ごせる3間とはどんな箱なのか?

 それは簡単に答えが出るものではありませんが、私の中でのイメージは「すきとおったほんとうのたべもの」です。これは宮沢賢治の『注文の多い料理店』の序文にある好きな言葉です。それはきっと身近なところにもあるのです。でも気が付かず出会わない。自主保育とはそれを探す旅なのかもしれません。美しく豊かで、けれど暑くて寒くて危ない自然空間、里山がやはり舞台になると思います。親達の遠く温かい目線に見守られながら、そこで出会う友達・人々・虫・草木が、子どもや親達の「すきとおったほんとうのたべもの」になってくれればと願っています。 (石附おやじ)

 千葉県森の保育研究会の定例会に参加してみました

 デンマークで誕生した森の幼稚園、今や国内でも様々な形で実施され、森のようちえん全国交流フォーラムも開催されています。先日、千葉県森の保育研究会の定例会に参加して話を聞いたのですが、森の保育を実施する際にまず立ちはだかるのが場所の問題のようです。いったいどこのお山で保育を行えるのか?千葉県は予算を使って場所の調査から始めるとのこと。その点、子どもの園の活動場所である小野路のお山は、今まで地元の幼児園が活動していたこともあって地理にも明るく、どこにどんな木の実があるか、遊び方も子ども達がすでに多くを知っています。子ども達に受け継がれてきたお山遊びの文化を、大切に引き継いでいけるとよいのですが。 (石附おやじ)

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