書籍紹 介

 とっとこを作り上げていく上で、今までに読んだ書籍をご紹介します。幼児期の子育てについては、様々な考えをもった人が、多くの本を 出しているのにビックリしました。こうした本を読む機会が得られたのも、自主保育のお陰・・・かな?

子ども 社会・遊び
保育
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 子 ども社会・遊び

いま、子ども社会に何がおこっているか 日本こども社会学会編

1996年6月

 子ども社会とは何か、大人社会とは何かを定義した上で、大人社会が子ども社会をどう変えていっているのか、その実態を様々な角度から調査考察している。 大人社会は子どものためにどんな点を注意しなくてはいけないのか、考えさせられる。

 日本こども社会学会の研究テーマを知る基礎となる一冊である。また、各章で様々な参照文献が簡単な書評とともに紹介されており、子ども問題を考える上 で、参考図書を選ぶガイドとしても使える。
いま、子どもの放課後はどうなっているのか 深谷昌志・深谷和子・高旗正人編

2006年5月


 何か日本の子どもたちがおかしいという声の高まりを受け、日本こども社会学会が中心となり、
2004年に全国子ども調査を開始した。本書は調査データの数値を具体的に 紹介し、そこから現在の子ども放課後の様子を描き出している。ライフスタイル、遊び環境、ケータイ文化、子どもの幸福感、地域差などを尺度として調査して いる。

 地域での外遊びが少なくなったという話は聞いていたが、約40%の子どもが放課後に全く遊んでいないといった統計データを見る と、自分が子どもだった時の子ども社会との差に愕然とする。 現在の子ども社会の問題点を考察する上で、方向性を導いてくれるとともに、貴重な数値データ 資料になる一冊。

幼児の近所遊びに関する基礎調査 萩原元昭著
1990年2月

 著者の定義する幼児本来の遊びとは、自分の意思で、どんな遊びを、だれと、どのような遊び方で、どれ位時間をかけて遊ぶかを決められる活動である。こう した遊びは、大人支配型のタテ関係での活動になりがちな、家庭、幼稚園や保育園では実現が難しい。幼児が自らの意思で歩いて、ヨコ関係の社会に入るのは、 近所遊びの機会を通してである、と著者は考える。昨今、先生や親との対応は上手だが遊び仲間とうまくかかわれない、室内遊びを好む傾向が強く身体を思うよ うに動かせない、といった問題が提起されているが、これは近所遊びの内容の変化や減少が関係しているのではないか。

 そこで幼児約1万人にアンケート調査を行い、近所遊びの実態をデータとして明らかにした。データを元に、近所遊びの量にはどういった条件が影響するの か、母親の生活との関係、親の態度の影響などの相関関係を統計学的に導き出している。また近所遊びが、社会的成熟度や遊び能力などにどのように影響するの かも数値化されている。最後に保育カリキュラムへの提言という形でしめくくる。近所遊びという視点から調査考察を行った貴重な資料といえる。

 大人はどのように子どもの遊びに係わるべきなのだろうか。大人支配型は幼児本来の遊びとはいえないが、一方で遊びの伝承のために大人の適切な指導が必要 とされている時代である。近所遊びを発展させるための親のあり方として、親の共同保育姿勢の必要性が紹介されている。親の都合で遊びを中断させたりするこ となく、また適度に放置され、幼児達が自分の意思で遊びを進行できる、そしてお遊びの伝承を適度に行う、それが自主保育に求められるものかもしれない。園 と自主保育の差を見つめなおす機会にもなった。
出てこい子ども社会の「仕切り屋」 明石要一著
1999年10月

 子ども社会で遊びが成立するには3つの間、時間、空間、仲間が必要と言われるが、この本では最後の仲間にウェイトを置いて考えている。仲間集団を成立さ せるためには、それを取仕切る仕切り屋役が必要だが、昨今そうした役割の子どもがいなくなっていると著者は考える。そしてその原因を、子ども達が中間集団 を経験しなくなったせいだと考える。子ども達が経験する集団は3種類あり、小集団である家族、大集団である幼稚園や学校、そして中間集団である。中間集団 とは、無意図的で自然発生的な6〜10人の仲間集団を意味し、子どもが仕切り体験できるのが集団である。本書ではこうした考えを元に、様々な角度から分析 をすすめ、「仕切り屋」育成を目指す教育課程の編成を目指している。
自由を子どもに 松田道雄著
1973年

 小児科医であり育児の百科などの著書で知られる松田先生の本。自分が自分の主人になる、これが著者の定義する自由だ。旧来の家制度があった時代、子ども へのしつけは厳しいものだったが、幼児達は息抜きをする自由空間を、近所遊びの場という形で持っていた。しかしそれが失われてしまった。

 お母さん達は子どもに外遊びが必要なことを知っているが、すべり台の滑る順番を指示したり、シャベルを貸してあげなさいと言ったりと、子どもに自由空間 を与えるとは言えない。自分が自分の主人になってこそ自由が得られるからだ。自由をうばわれた子ども達はやがて反抗し、それを育児技術でやめさせることは 不可能であり、自由空間を子ども達にかえしてやるしかない。また、お母さんが一日中一対一で子どもと顔をあわせていては、幼児が自立するためには反抗の形 をとるしかなく、しかしそれはお母さんにとって不愉快なことである。自立させる場所として、幼稚園などに預けたいということになるが、現代の幼稚園は管理 教育が進み、カリキュラムを作ってこなすという自由空間とはかけ離れた方向にいってしまった。この本は30年以上前に書かれたものだが、現代も同じ問題を かかえていることに驚く。
駄菓子屋楽校 松田道雄著
2002年

 失われた子どもの世界の再生を目指し、古来からの駄菓子屋に注目して研究した力作。著者は『だがしや楽校』を提唱して展開を目指している。
 駄菓子屋は子どもの近所遊びの世界の中心的役割をはたしてきたが、今それが失われつつある。駄菓子屋の持っていた7つの価値を紹介し、子どもの世界に必 要な要素を解説する。1) 環境世界を作る 2) 選ぶ・買う・分け合う 3) 食べて遊ぶ・作って遊ぶ・試して遊ぶ 4) 当たる・賭ける・集める 5) 群れて遊ぶ 6) とる・悪さをする 7) 癒す・癒される 8) なつかしむ 9) 人生に必要な知識をすべて駄菓子屋で学んだ。

 様々な角度からアプローチしているため、全体の構成に若干まとまりがないとも言えるが、逆にいうと駄菓子屋から見えてくる様々なテーマを紹介していると もいえる。ダガシヤチルドレンという考え方は、近所遊びのあり方として非常に共感できるものがある。そこで考えさせられるのが、幼稚園や自主保育で提供す べき子ども世界とは何なのだろうかということだ。幼児は遊びを通じて様々なことを学ぶ。その遊び世界の理想とは、ダガシヤチルドレン達による懐かしい子ど も世界なのだろうか。ダガシヤチルドレンが復活し、近所遊びが活発になれば幼稚園はいらないのだろうか。駄菓子屋を中心とした子ども世界からみると、幼稚 園はプレ学校の位置付けで、自主保育は親の過干渉世界とも見える。自主保育とは何なのか、園が提供している子ども世界とはいったい何なのか、考えさせられ た一冊だった。
テレビゲームと癒し 香山リカ著
1996年10月

 一般的にテレビゲームは子どもの成長に害という世の風潮だが、精神科医でもある著者は自らの臨床経験から、テレビゲームが持つ癒しの効果を感じている。 まだ実践理論にまでは達していないが、テレビゲームが持つ力についてみずからの経験を語っている。

 子ども達はなぜテレビゲームに惹かれるのか、引用されている写真家の藤原新也氏の言葉が印象的である。「そこには昨今の管理化された現実に無いものが用 意されている」、「少年は定型化され、現実のにおいの失せた現実に背を向けて、TV画面の中の、より現実らしい虚構の中に脱出し、身体を遊ばし、息を吹き かえす」。大人が過干渉になる社会では、子どもの求める遊びの世界は実現できないのだろう。

 保育とは何を提供するものなのだろうか。幼児期は遊び中心、これはどこでも言われていることだ。しかし注意しなくてはいけないのは、保育する大人の役割 は子ども達を遊ばせることでは無いということだ。そうした遊びはもはや遊びではないだろう。子ども達が自由に体を伸ばして遊べる、現実世界の環境を作って 見守ることが大切なのだと感じた。その方法のヒントはテレビゲームの世界に隠されているのかもしれない。
遊びの文化論 薗田碩哉著
1996年4月

 1983年に書いた「遊びの構造論」に続く遊び論。その後 1989年には「遊びの大事典」が刊行され、本書が書かれた1996年は、筆者が日本レクリエーション協会を退いて実践女子短大の教授に就くという区切り の時期にあたる。その意味で、今までの筆者の遊び論がまとまっているものと言える。

 第1章の遊びの思想史では、古代から近代に至るまで、発表されている遊び論などが順に紹介されている。参考文献も23あり、歴史的に遊びがどう捉えら れ、どんな人がどう分類が試みられてきたかを紹介している。
 第2章の遊びの教育論では、遊びとまじめ、仕事、学校など、相反する位置にいるものとの関係を考察し、遊びを学びに生かす方法を探っている。
 第3章の遊びの分類学では、ロジェ・カイヨワの遊び論による4つの分類、偶然、競争、模擬、眩暈について紹介する。遊びの持つ要素が系統的に説明されて いる。この分類は「遊びの大事典」の基本分類になっている。
 第4章の遊びの人生論ノートでは、著者の係わるさんさん幼児園の話から始まり、子どもにとっての遊びがどういったものなのか具体的な話が紹介されてい る。続くオヤジの教育学では、遊びのある子育てとして父親の役割が提案されている。中高年サラリーマンのための遊び学、遊びと死の美学など、後半は大人に とっての遊びの話になっている

 第2章と4章が筆者の遊戯教育論として具体的に紹介されており、まずはこの章を読むだけでも著者の考えが見えて楽しい。
子どもとあそび―環境建築家の眼 仙田満著
1992年11月

 仙田氏はこどもの国の設計にも携わった環境建築家で、現在環 境デザイン研究所の会長。多くの子ども関連施設の設計に係わっている。野中保育園の設計も行っている。本書は、朝日新聞に「あそびの現風景」として連載し た内容を整理加筆してまとめた一冊。

 氏が定義する子どもの遊び環境は6つの要素から成る。主として自然スペース、オープンスペース、道スペース、従としてアジトスペース、アナーキースペー ス、遊具。それぞれのスペースの持つ意味合いが詳しく解説されている。また子どもが遊びやすい空間の条件などの考察、世界の子どもの遊び環境の調査などと ても興味深い。

 後半には、1955年,1975年,1990年という時系列で、遊び空間(6つのスペースと遊び場までの距離)を調査比較した結果が考察されている。著 者によれば、第一の変化が1960年頃にあり、あそび空間が激減し1/20から1/10になり、内遊び時間が外遊び時間より長くなる逆転が発生、あそび集 団はガキ大将集団から同年齢集団になった。第二の変化は1980年頃から始まり、あそび空間はさらに1/2になり分解し、内遊びは外遊びの4倍の時間に達 して自閉化が進み、遊び集団は同年齢集団すら解体されてしまった。こうした中で大人の果たすべき役割などが最後に考察されている。

 自主保育を考える上で、特に注目したいのは自然スペースでの遊びの変化である。1955年頃は最も遊ばれた空間は自然スペースであり、自宅からの距離は 500m〜1kmにあった。それが1975年以降はほとんど無くなってしまっている。確かに自分の子ども時代を考えると(すでに1975世代ではあるが) 1km程度の遠征は幼稚園、低学年の頃によくやっていた。また、著者の定義する自然スペースは木登り、土手遊びだけでなく、生き物との出会いの場でもあ り、虫を捕まえたり、様々なものを採取できるスペースである。さんさん幼児園では、こうした自然スペースで過ごす時間と空間が提供され続けてきたのではな いかと思う。自主保育では、一般に家庭では提供しずらい、自然スペースでの遊び、異年齢集団での遊び、の2要素がポイントになるのではないかと思った。
子どもの遊び空間 藤本浩之輔
1974年

 子どもの遊び条件、時間・空間・仲間のうち空間に焦点をあ て、戸外や施設空間における問題点と改善の方向性を示す。戸外空間では、児童公園、原っぱ、空き地、すみっこ、道路、団地、遊園地、野外活動施設について まとめてあり、施設空間として、児童館、子ども文庫、学校開放についてまとめてある。またあわせて、子どもの組織の章では、仲間集団、子ども会について、 最後の章では小学校を実例にして都市化による遊び空間の変貌を考察し改善案を挙げる。

 近代の子どもの遊び場について考える上でのポイントをとてもよくまとめて書いてあり分かりやすい。この本が1974年にすでに出版されていたのは驚きで ある。しかしそれから30余年たった今でも、本質的な改善は行われておらず、同じ問題をかかえていることにも驚く。この本ならではの視点は、団地、子ども 文庫という面での考察がある点だろうか。

 団地の章に母親支配性についての記述があり共感した。曰く、団地では昼間は会社員の父親不在によって、女房族と子ども族だけになり、母子癒着がすすんで いる。これが進んでくると、母親も子どもを自分の磁場の中にとらえておかないと不安でならないという心理状態になる。しかしそれは子どもの自立を阻害し、 母親の人格についてもマイナスの作用をもらたす、というものである。私が思うに父親の役割は、こうした母子の過剰な磁力的結びつきをひきはがし、逆に子ど も同士が磁力的に結びついて社会を構成できるように誘導することであろう。
すきまにあそぶ子供たち 小笠原浩方著
1985年10月

 著者は、子ども達の遊びは「すきま」に姿をあらわすと考え る。すきまには、時間的すきま、空間的すきま、制度的すきま、意識的すきまといった種類がある。子どもは、学校のほんの短い休憩時間でも遊ぶし。駐車場や 路地のような空間を好み、監督者のいないところで遊び、緊張が途切れてほっとした時に遊ぶ。

 すきまは秩序のあるところに逆説的に生じ、管理のあるところにすきまが生じる。しかし現代の管理社会はそうしたすきまを無くして管理下に置いたり、合理 化によってすきまを無くす方向に進んでいる。しかしすきま(あそび)の少ない社会は人間的で無いと著者は考える。時間的、空間的、制度的なすきまを失った 子ども達は、意識のすきまに音楽をとりこみ、漫画などを流し込んでいる。

 著者は(財)プレイスクール協会の理事で、雑創の森プレイスクールを運営している。プレイスクールは遊びの空間のために作られているが、いやおうなしに 管理的性格も有してしまう。実際に遊び塾のような性格を有するプレイスクール、プレイリーダーもある。しかし著者のプレイスクールは、その目的を見立て上 の空間の維持とし、空間的すきまに遊ぶ子ども達の陣と考えている。

 私達の自主保育においても、積極的に遊びを提供するのではなく、子どもが遊びはじめる居心地のよい、様々なすきまを提供することに着目するのが重要なの かもしれない。
虫眼とアニ眼 養老孟司・宮崎駿著
2002年7月

 養老孟司氏と宮崎駿氏の対談を記録した本…なのだが、この本 の魅力は本文の前にある22ページに渡るイラストの部分だ。宮崎氏が、こんな街を作って住みたいというモデルを描いている。街のいちばんいい所に保育園を 置くところから始まっていて、そこに描かれた街の風景は、子ども達が自然と元気になりそうな、本当にそこに住んでみたくなる所だ。こんな街ならば、子ども は子どもらしく過ごせ、近所遊びも勝手に充実するのではないかと思う。

 ここに描かれた風景は、自分達が自主保育を行う上で忘れてはならないと思う。つまり、森のようちえんスタイルで行われる自主保育は、えてして幼児隔離ス タイルになりがちだと思うからだ。自主保育は街の一部であるべきかもしれない。幼児を自然の奥に隔離することなく、街の中に溶け込んだ形で、自主保育がで きればよいと思う。森の奥に入るのはなく、人の活動する里山や自然公園が舞台になりそうだ。

 保育

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さあ森のようちえんへ 石亀泰郎
1999年6月

  1950年代にデンマークで誕生し、ドイツにも広がっている「森の幼稚園」とよばれる形態の幼児保育。写真家である著者が、デンマークのグラドサクサ 森の幼稚園を取材し、森の幼稚園の四季を紹介している。大きなカラー写真を中心に構成されており、それぞれにキャプションがつけられて、森の幼稚園の様子 が直接伝わってくる。カメラマンならではの一冊。

 森の幼稚園は、一日森に入って帰ってくるというスタイルの保育。読み書きや団体で行動させることは目的とせず、教えるのは森の生き物を大切にすること や、皆が仲良くすること。紹介されている幼稚園は、3〜6歳児が20名、保育スタッフ4名で構成されている。園舎を持たずに活動している園も多く、子ども 達はしっかりした装備で雨の日もお山に入っていく。さて、子ども達は森でどんなふうに過ごしているのか?著者曰く、うまく言えないそうだ。好きなことをし ているとも言えるし、のんびりしているとも言え、特別何もしていないとも言えるそうだ。

 小野路のお山で自主保育。園舎を持たずにお山を中心に行うスタイルであれば、この森の幼稚園の形態が参考になるに違いない。日本でも森のようちえん全国交流フォーラムな どが出来ている。近隣では横浜市戸塚区・栄区で活動でしているNPO 法人こどもの広場もみの木がある。
幼児のための環境教育
スウェーデンからの贈りもの
「森のムッレ教室」
岡部翠編
2007年4月

 スウェーデンでは国民の5人に1人が経験しているという、幼児向け自然教室「森のムッレ」を紹介した本。ムッレとは森の妖精の名前で、天候に関わらず一 日を自然の中で過ごすスタイルの活動。8〜9人の幼児にリーダー2人つく構成。50年前に誕生し、日本でも兵庫の日本野外生活推進協会を中心として15年 前から活動が行われ、ムッレ教室を取り入れている保育園がある。単なる野外活動ではなく、環境教育としての位置づけをもっているが、自然体験を通した総合 的な人間教育として認識されている。

 本書は日本野外生活推進協会の15年間のまとめのような本で、ムッレ教室の紹介、日本での立ち上げ、実際に導入した保育園の話、活動を支援している人た ちの話が書かれている。ムッレ教室は、2日間のリーダー養成講座を毎年各地で開いており、東京でも昨年は青梅で開かれている。小野路のお山で自主保育の運 営を考えた場合、こうした養成講座や雛形が存在する森のムッレ教室の導入を検討するとよいかもしれない。

 日本野外生活推進協会(森のムッレ協会) http://www7.ocn.ne.jp/~mulle/index.html
幼稚園で子どもはどう育つか 結城恵著
1998年2月

 都内の一般的な幼稚園に、10ヶ月間フィールドワークで入り込み、どのような集団指導が行われているかを、正確に記録して分析を試みた珍しい一冊。日本 的集団主義と呼ばれる人間関係の原型が、幼稚園の教育の現場でどのように形成されていくのかを追う。

 テープレコーダーも持ち込んでおり、非常に正確に先生達の言葉が記録されている。記録された言葉を読むと、個人へ指導が行われるのではなく、子ども達に 集団を意識させながら指導が行われている様がよく理解できる。ここでいう集団とは、組などの目に見える客観的な集団にとどまらず、例えば「そこでガサガサ している人たち」のような目に見えない集団名も含まれている。また、どのような指導方法がどのような状況でどの程度の頻度で現れるのかも分類統計化されて いる。
土の子育て 青空保育なかよし会著
1999年

 鎌倉市の自主保育の会の活動紹介。園舎を持たず少しくらいの雨なら屋外の活動。谷戸の自然の中にどっぷりつかって、四季折々自然の中での遊びを実践して いる。春夏秋冬と順に章を分けて活動例が写真入りで紹介されている。自然と仲間が子どもを育てるという考えのもと、乳児から自然の中に入り込み、野生的な 活動となってきている。園舎なしで、自然の中での保育活動を考えるには、とても参考になる一冊。
楽しい集会づくり 薗田碩哉著
1981年

 この本でいう集会とは、儀式、意志決定、論議、遊び、と人が集う様々な集まりを指している。そうした集会の運営事例をいくつも挙げて、リーダーが楽しく 運営する方法を具体的に解説している不思議な本。

 特に注目したい部分は、グループ・レクリエーションにおける個人の尊重の話である。今のさんさん幼児園の社会の雰囲気に繋がるような、基本的な考え方が 書かれている。ここはそのまま引用したい。曰く、

「個人の尊重を基盤にしているかを端的に示すものさしは、『しらける』権利が留保されているか、ということにかかっている。しらける、というのは先にも述 べたように集団と個人の間をゆれうごく人間が、個人の側のサイクルにかたむいていることを示す徴候なのである。したがって、しらける者もないほど、のりに のったグループ・レクは、どこか異常であるし、しらけることができない、あるいはしらけてはいけない集会は、完全に非レクリエーションである。適度にしら けるのは、集団の健全さの証拠であり、また、しらけっぱなしで疎外され排斥されることなく、再びのっていけるムードこそが"よい"グループだといってよ い。」

 活動が熱心な幼稚園はいくつもあるが、しらけてはいけないムードを漂わせている所も見受けられる。しらける権利という独特の切り口、著者の係わるさんさ ん幼児園の気楽さはこうした考えが入っているのかもしれない。
大地保育環境論 塩川寿平著
2007年7月15日

 大地保育とは、静岡県富士宮市にある野 中保育園で行われている保育スタイル。自然環境を重視し、大地を土台に展開される子ども主体の保育を意味している。この本は、そうし た子ども主体の保育を行う場合に、どんな環境を提供すればよいのかについて、理論立てた上で野中保育園の実例を紹介している。ここでいう環境とは、単に場 所や遊具や園舎に留まらず、保育者自身も含まれる広義の意味の環境である。遊びとは何かという定義から始まり、屋内環境と屋外環境それぞれについて、必要 な空間が解説されている。屋内では遊ぶ、歌う、描く、読む、書く、作る、食べる、寝る空間などを。屋外では冒険、探索、秘密、創造、想像、感動、憩いの空 間など。さらに飼育動物や植物、保育者という環境、安全や整備など内容は多岐にわたる。

 園舎を持たない自主保育を考える上で、日々の園児達にどのような環境(場所や内容)を提供するのかは、切実な課題である。単に時間を過ごすだけでなく、 子ども達の遊びの本質を引き出せるような環境を提供しなくてはならない。野中保育園は広い敷地を持っている園のため、直接の参考にはならないが、提供すべ き”環境”をきちんと定義する上で役に立つ一冊である。
子供を誰にあずけますか 長井 朝美
1999年9月

 世田谷区に「あおぞら園」という幼稚園がある。この幼稚園は園舎を持たず、祖師谷公園近辺の様々な場所で活動している。長沢えみ子、空橋因さんの二人で 保育を行っている。この本には、著者が毎週取材であおぞら園に通った時の様子が書かれている。ただ、いわゆる紹介レポートのようなものとは違い、その当時 様々な家庭内の問題をかかえていた著者が、あおぞら園と出合って感じたことが書かれている。

 あおぞら園は、もともとあった幼稚園の閉園に伴って、父母からの要望で生まれた。先生2人が遊びを中心とした保育スタイルを閉園後も続けている。最初は 4人の園児から、今では30人ほどがいるという。園舎は全くなく、借りているアパートの一室が事務所兼園舎である。雨の日もしっかりした雨具で屋外で活動 する。活動場所も電車に乗って別の公園や様々なところへ出かけていくなど積極的で、自主性のある子どもを自然活動の中で育てている。また先生と全員の親 が、全員の子育てに関わっていく集団育児も特徴という。

 遊び中心、自然保育、集団育児、都市部、また2人の保育者で見ている点など、私達のおかれた環境とも近く、「あおぞら園」は自主保育スタイルを考える上 でとても参考になるのではないかと思う。

※あおぞら園を紹介したページ(参考)
http://www.fujitv.co.jp/ana/kyoiku/matsuo06.html
幼児の自由遊びとその援助 竹井史編著
2000年8月

 子どもの遊びが生き生きする方法をテーマに、多数の事例を元にして保育ポイントを解説している保育実践用のテキスト。尼崎市立保育所での保育記録を元に している。生き生きさせるために、子どもたちの遊びをリアルタイムで見て、遊びの谷や山のリズムをとらえて、遊びを発展させる援助をする、というのがこの 本の観点である。
 事例は物的環境編と人的環境編に分けて紹介されている。物的環境とは遊び空間や遊具、環境などを示しており、遊び発展の援助にどのように利用できるかが 考察されている。人的環境とは子どもへの言葉掛けの内容など、保育者自身の行動である。また土遊びを例にとって年齢別の特徴などの考察、付録として保育 tips集などが付いており実用書の意味もある。

 自主保育においても、自由遊びを考える上で、保育者の遊びへの関与度合いを決めるのは難しい。適切な援助があれば遊びは発展するが、一方で大人の視点か らの遊びになる恐れもある。しかしそもそも保育場所(物的環境)を保育者が決定した時点で、すでに自由遊びへの援助が行われているわけだから、その物的環 境にあわせた人的環境面においても適切な援助が必要であろう。自主保育を自由遊びへの援助と考えたとき、この本を使って物的環境・人的環境という面で評価 するのも興味深い。
幼児期に育つ「科学する心」 小泉英明編著
2007年

 (財)ソニー教育財団は、ソニー幼児教育支援プログラムとい う名前で論文発表や助成事業を行っている。この本では、科学する心を育てる上で幼児期に何をすべきなのかを考え、それを5人のノーベル賞受賞者への聞き取 りで評価し、最後に様々な幼稚園や保育園での実践を紹介している。

 科学の教育、幼児期と聞くと早期教育をイメージしてしまうが、この財団の考えは少し違う。Sense of Wonder、様々なものに素直に感動する心が幼児期には大切だと考えている。知識を与えるということではなく、心の土台を作ることに重点を置いている。
 定義されている7つの視点はこうだ。1) 感動し想像する心。2) 自然に親しみ驚き感動する心。3) 動植物に親しみ、命を大切にする心。4) ひと・もの・こととのかかわりを大切にして、思いやる心。5) 遊び、学び、共に生きる喜びを味わう心。6) 好奇心や考える心。7) 表現し、やりとげる心。

 自主保育においても、自由な遊びを活動の核に置いたとしても、子どもらを置く環境は保育者が設定するのだから、何らかの方向への誘導は間違いなくある し、検討することが必要である。この本で定義されている科学する心を育てる視点や、幼稚園等での実践記録は、幼児期に体験させたい事柄を考える上で参考に なるだろう。また助成制度について知っておく上でも価値がある。
幼稚園で育つ―自由保育のおくりもの 山口大学教育学部附属幼稚園 編著

 森の幼稚園は私たちの夢だ、という書き出して始まる。この園 は自由保育を行っており、その様子を各章ごとに、副園長の文、養護の先生の文、3歳児担当教諭、4歳児担当教諭、5歳児担当教諭が書き記している。その 後、親を支える話、中学生が来た時の話と続く。

 副園長は、小学校からの異動で始めて幼稚園にやってきて、自由保育に否定的な考えをもっていた。平成に入ったころから、30分程度の式の間、きちんとし た態度がとれない落ち着きの無い子が増えたのだという。小学校の教師達は、その理由を幼稚園の自由保育のせいだと考える風潮が広まっていた。しかし園にき て、自由保育というのが、幼児中心の自由活動形態を意味するのではなく、幼児の主体性を重んじる自由な形態の保育であり、自由保育は保育形態ではなく保育 思想であることを知る。また、各年齢の担当教諭の子ども達のエピソードを交えた話は、自由保育を実践するにあたって、年齢ごとの成長段階を理解する上でと ても参考になり、3年間を通じて大局的、長期的に子どもを見守る参考になる。章のサブタイトルになっている、3歳児のけなげな日々、4歳児の試行錯誤、5 歳児の誇りと自信、という文言がそれを表していておもしろい。

 親を支える章では、5歳の女の子がお母さんに甘えて泣いたり、だだをこねたりしている話がのっている。お母さんは、ここで負けてはわがままを許してしま うことになると思って負けずに言う、子どもは欲しいと言い続ける、この繰り返しになって疲れてしまっていた。先生が出した処方箋は、子どもの言うことを 100%、理由を聞いたり、理屈をいわずに言われた通りのことをやってあげることを一週間続けることだった。親が自分のためにできることを、95%ではな く100%全てしてくれたと確認して、気がすむことが大切なのだという。 実際この例の子どもは聞き分けのよい元の子に戻ったそうだ。
「待 ち」の子育て 山田桂子著
1986年1月


 静岡県島田市にあるたけのこ保育園の活動を紹介した一冊。自 然を求めて市中心部から農村地帯に場を移し、園舎は親たちによる手作り、裏山で木登り・ターザンごっこ・がけすべり、毎日泥んこになって遊んでいる。給食 は3分搗米に雑穀入り、おかずは納豆や漬物といった素朴なものばかり、食べることを保育の土台に考えている。園長先生の「大人が先回りにして何かを与える んじゃなくて、赤ちゃんでも『わたしはこれがしたいんだよー』って自分の要求を出す、そのことをとても大事にしてきたいんですよね」の言葉が保育園の方針 を表している。

 この園を訪ねた著者が感じたのが、園児の描く絵の楽しさ。園長先生によれば、山や川で遊び切っている子はすてきな絵がかけるという。その理由を知りたい 著者が色々と保母さん達に聞いたところ、たけのこでは子どもを管理しようとせず、その子の自立を助けるように待つ保育をし、個人差もありのままの姿を認め て、その子なりにがんばらせるのだという。そして保母さんが子どもと対等に一所懸命遊んでくれ、保母を信頼し心を開いてくれるのだという。そうした積み重 ねが楽しい絵を生み出しているようだ。

 「遊びきる」という視点で子どもを見てる保育者の姿に共感できる。子どもが夢中になって自分が遊びの主人公となって遊びきることを大切にし、その中では 当然、自己主張がぶつかりあってケンカになる。そうしたケンカは気がすむまでした方がよいとし、また遊びきっていないとエネルギーの余った子がいらいらし て弱い子をいじめる、また弱い子は対等のケンカができなくてメソメソする。子どもらが遊びきっていると感じたときは、保育者は子どもらに一歩上の集団活動 を持ちかけ、また遊びきっていないときは楽しく遊べるように持ち掛ける、そうした保育の考えに共感できる。私達の自主保育活動においても、ケンカの仲裁が テーマになっているが、この園のような視点も参考になると思う。

子どもたちの秘密基地 安藤正紀
1991年3月

 小学校の教諭である著者が書いた生活科での授業記録。テーマ は遊びで『室内でのゲームに熱中する子どもたちの生活行動を、自然を良き遊び相手としている子どもたちの生活行動に変えていくことを意図する』としてい る。

 具体的には、まず全員に自分の秘密基地の場所を絵に書かせてる。室内遊びばかりの子は家のベッドの下を書く子もいる。それから秘密基地マップを作り、そ の基地をクラスのみんなでめぐっていくという方法だ。その結果、そのクラスの遊び空間は1年半で平均5倍に広がった。対照クラスは3倍なのでその成果は明 らか。また、室内遊びばかりだった子については、もともと外遊び中心の子にくらべ飛躍的に遊び空間が拡大していた。

 子どもが秘密基地を持てるためには、広い自然空間に自由に子どもを放てる環境が必要だと感じた。しかし大人が安全と感じる管理された場所は、子どもが秘 密基地を作る隙間も少ない。だから自分で危険を判断して、自由に遊べる子どもを育てるしかない。本書でも言及があるが、外遊び、室内遊び指向の方向性は、 就学以前の保育環境や方針が大きくものをいう。小学校では、塾やお稽古事などの時間が増えていきがちな現代、幼児期に十分に自然空間で自由に遊ぶことを経 験させたいと感じた。
子ども勝手の環境づくり ビオシティNo.32
2005年11月

 この雑誌の中に、老川順子さん・東方真理子さんによるドイツ 森の幼稚園の紹介記事が載っている。毎日4時間を森で過ごす子どもたちの様子が、多数のスナップ写真とともに紹介されていて雰囲気をつかむことができる。

 8:30 集合して森へ出発。9:00 森に到着し好きな遊びを展開する。男の子たちは木でテント作り、動植物、虫観察、走っている子、落ち葉遊び、木に抱きついているなど様々。10:00 朝食とお昼寝。ドイツでは遅くに朝食をとる習慣があるという。持ってきたペットボトルの水で手を洗い、輪になって広場でお弁当。食べ終わるころに絵本の読 み聞かせがある。11:00 森の小道を進む。鳥の鳴き声、季節の移り変わりを感じながら散策。11:20 その日はブレーメンの音楽隊の劇の準備。新聞紙と麻紐と木の枝で作ったロバとネコとニワトリ。色づけ作業を行った。12:30 集合場所に戻り。終わりの歌。ポケットいっぱいに小石を拾ってきた子など、お母さんにおみやげもいっぱい。
 ドイツの森の幼稚園は、貴重な経験、体力増進、運動神経の発達、一般的にその効果は評価されているとのことだが、著者曰く、森の幼稚園で得られる本当の 意味はまだまだ未知数とのこと。子どもにとって本当の意味での”ファンタジー”こそ、子どもにとっての”いい”環境だろう、と言う。

 お山での具体的な保育内容を考える上で参考になる記事である。また、本誌にはこの記事以外に、羽根木プレイパークの誕生物語や、子どもによる都市運営ミ ニ・ミュンヘン、その日本版の千葉県佐倉市の「ミニさくら」など興味深い記事が含まれている。
耕さない教育 洲脇史朗
2007年11月
  岡山理科大学の数学科教授が書いた不耕起教育に関する一冊。一事例として千葉県の木更津社会館保育園の里山保育が紹介されている。

 著者が不耕起教育を考えたきっかけは、田んぼの不耕起栽培と出会ったからだ。千葉県の稲作研究家の岩澤信夫氏によると「耕さない硬い田んぼに植えられた 苗は、根を張る時にストレスを感じ、そのストレスに抵抗することで野生化する。野生化したことで冷害にも病害虫にも強くなるから、農薬もいらなくなり、自 然の恵みをいっぱい受けた安全でおいしい米を実らせる」という。この理論を教育にも応用できないかと考えた。発芽から稲刈りまでの180日を人生の55年 に例え、それぞれの段階での不耕起の特徴を、教育でいうとどうなるか置き換えて考察されている。

 すべての段階を教育に置き換えて考えているので、多少無理な解釈も見受けられるが、徹底して置き換えて考えた成果として一読の価値がある。里山保育は、 稲作でいう稚苗作りの段階の教育事例として、社会館保育園の保育内容が約20ページに渡って紹介されている。この保育園は、宮崎園長のもと、年中後半から は年に60回里山へ出かける保育を実践している。園長は映画監督の宮崎駿氏を尊敬しており、監督と養老猛司氏が著書「虫眼とアニ眼」で示した以下の、現在日本の保 育園が備えるべき特徴を大切にしているという。

1 子どもは夢中で食べる。
2 全身全霊で遊んでしまう。
3 大人は手と口を出すな。
4 何でもバリアフリーにすると子どもは老化する。
5 危なくしないと子どもは育たない。
6 教えるべきはきちんと教えよ。子どもは守る。

 また、園長が会長を努める千葉県森の保育研究会の運営規則には、『本研究会は養老猛司氏のお考え(例えば「自然から隔離されて子供は育たない。」)を、 その発想の哲学とする、とある。著者をはじめとして諸氏の考えをみていくと、今求められている保育の姿が浮かんでくるようだ。
自由保育とは何か 立川多恵子・上垣内伸子・浜口順子著
2001年11月

 青少年の問題行動の一因は幼稚園時代の自由保育にある、とい う批判の声がある。この本ではそうした声を受けて、自由保育とは何なのか実際の保育例を挙げながら分かりやすく紹介されている。保育者への質疑や、自由保 育の歴史なども紹介されて充実した内容になっている。

 子どもに「好きにしていいよ」と言っても実は様々な制約が存在し、また保育者の考える好ましい方向も圧力的に存在しており、子どもにとっては矛盾した状 況を作り出してしまう。大切なのは、子どもが自由というよりは自由感が得られること、つまり「好きなことができたな」と感じることだと著者は言う。この自 由感は保育者の大人にも同時に必要であり、ルソーのエミールに見られる「かれ(子ども)にはいつも自分が主だと思わせ、しかも主であるのはいつもあなた (養育者=大人)であるようにしなさい」という考えに繋がっている。

 自由感を持って活動できているときは、子どもも大人も保育を支える枠組みを意識することはない。しかし子どもが活動のしにくさを感じたり、大人が子ども の活動にブレーキをかけたいと感じるときに、その枠は表面化する。この時、しつけやルールといった正当化するような理由で、子どもの行動を抑える方向にす すみ易いが、それでは子どもの自由感は薄れてしまうし、大人の自由感も薄れてしまう。大人は自由を支える枠組みを絶えず見直し、枠に向かう自由を認めると いう考え方が大切である。子どもの自由な活動のためといいながら、我慢や自己犠牲の感覚で保育にむかうスタイルも、大人の自由感が失われている。

 保育者である大人は、しつけやルールといった理由があると、例えば朝の挨拶など、子どもに強気で服従を求めるときがある。「しつけだからここは厳しくい こう」という姿勢に移ろうとするときに、保育者の中で何かが解除されてしまう感覚があるという。子どもも保育者も自由感を共有できる状況を探り続けること が大切である。

 自主保育の場で、実際に直面しているであろう様々な課題が、自由保育という観点でよくまとまっており、一読の価値がある。
りんごの木のびのび保育ブック りんごの木こどもくらぶ著
2006年12月
 書き途中
泥んこで風とあそび街を歩く―屋根のない「つくしんぼ」保育の日々 福永雪子著
2000年3月
 書き途中
いなほ保育園の十二ヶ月 北原和子・塩野米松著
2009年4月
 いなほ保育園(埼玉県桶川市)の 北原和子さんの言葉が、一年間の季節のめぐりを追いながら紹介されています。この保育園は映画「こどもの時間」でも知られています。映画では、子供達の過 ごしている時間が紹介されていましたが、この本は逆には、保育者側の姿が描かれていると思いました。読むのは早い方なのですが、この本は時間がかかりまし た。様々な出来事に対しての園長の言葉が、じっくりと厚みがあって、自分の中に入ってくるのに時間がかかったからだと思います。

 一番の感想は、園長含め保育者が、子ども達それぞれのことを本当によく見ていということです。その子がどこまで出きる子に育っているか把握した上で、様 々なことをやらせているのです。遠足のバスの話では、「この子たちは膀胱ができてるからトイレタイムはいらない。膀胱ができていなかったら絶対できないで す」という文を見て、そういうところまで子ども達を見ているのかと驚きました。

 本にでてくる子ども達は、文からですら生き生きとした目をもっているのが見えます。「いかなるときも緊張して生きなさいって日頃から言ってるし、そうい う生き方をしているから、物おじはしないです。命がいつでも落ちるということがあるのが当たり前だから、死と背中合わせで生きているから、生きるっていう ことは非常に緊張感が要ることなんですよってふだんから言ってるんです。」という言葉もあり、保育に携わる覚悟と正面から向かい合っている姿勢に圧倒され てしまいます。

 いなほ保育園を映画で見たときは、子ども達が過ごしている時間がとてもよく見えて、私の子育て観や幼稚園選びにも大きな影響を受けました。そして今、自 主保育という形で自分が保育に携わる身になってこの本を読み、あの映画で見た子どもの時間は、保育者の真剣な姿勢があって、はじめて成り立っていたんだと 思い知りました。この一冊、またも私に何か影響を与えてくれつつあります。
カモシカ脚の子どもたち 宮原洋一著
2009年7月
 祖師谷公園をベースに活動している『あおぞらえん』(「子どもを誰にあず けますか」1999年9月 長井朝美著でも紹介)の活動を3年間に渡って取材し、文と写真で表した一冊。特に写真は、カメラ目線を意識しない子ども達のそのままの姿が切り取られてい る。普段の公園での遊びから、遠足、合宿など年間を通じ、また年少〜年長までの姿が紹介されている。大げさになることもなく、素朴に園の姿を撮って書かれ ており、その背景には著者が三年間かけてあおぞらえんを見てきたという、しっかりとしたものを感じる。

 子どもを自然の中で自由に遊ばせる、時間に追われない時間を提供する点で、私達の目指す保育スタイルと重なる部分は多く、一度ぜひ見学してみたいと思っ た。とっとこは土曜日だけオヤジの保育が中心なので、もちろん深さは全く違うのだが、きっと子どもに対する目線は参考になるに違いない。

 遠足のエピソードで、子ども達がどんどん先に行ってしまった時の話があった。同じことを私もこの一年間で何度か体験して、悩んで色々なことを試してみ た。安全のためにある程度のルールを守らせるべきなのかどうか。どの程度指示すべきなのか…。それに対してはこう書かれていた。『普段から、交差点に出る とか分岐点に出るとか、とにかく道の様子が変わった所に来たらそこで止まって待つことになっているので心配ない』。うーん、うならされた。

あしたの学校―グループ・おりじの子どもたち
鳥飼 新市著
1986年9月
 世田谷にあった”おりじ”という 子ども達の集団のお話。おりじを率いたチーフ宮脇和氏も魅力的です。おりじは、子ども達のやってみたい夢を子ども達自身でかなえて突き進んでいきます。家 もつくれば、乗り物もオフロードカーから水陸両用車まで。無人島でキャンプしたり、前線基地を作ったり。普通なら、できないよと口にすらしない夢を語り、 ホントウに皆でやってしまう雰囲気が素敵です。
 自由と好き勝手は違うんだゾ、に代表されるチーフ語録も面白いですが、おりじOBの言葉がまたいいんです。曰く「自分のわがままを抑えることが協調性 じゃなくて、どれだけみんなのわがままを通せるかってことを考えていくことが本当の協調性なんだ、と思うようになったんですね。」
 とっとこは、幼児期の子ども達がターゲットなので、提供する三間は里山で自由に遊ぶことに留まっています。でも『Nextとっとこ』つまり少年期の子ど も達には、どんな三間を提供すればいいんだろう?そんなことを考えていた時に出会えたのがこの本でした。とっとこのオ
ヤジ保育は、オヤジが子どもらを連れ出して、好きな事を自由にやってます(時には行き過ぎて地元の人に怒られちゃうこともありますが)。そんなオヤジらの 後姿を見て、自分のやってみたいことをやってみる子ども達に育って欲しいと思います。『Nextとっとこ』もやるかぁ?
 

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